朝鮮茶碗


   一

 「茶」の方では「高麗茶碗」と云う。ここで高麗とは時代の名ではなく、

朝鮮を指すのである。茶の湯の初期に朝鮮から渡来し又将来した茶碗に就い

ては、随分こと細かに鑑賞され、又叙述されていると思える。恐らく日本の

茶人達ほど、それ等を大切に扱い、右から見、左から眺め、上から覗き、下

から視つめた者は何処にもあるまい。又この世には色々の器物があるが、恐

らく茶の湯で用いられた茶碗ほど、こと細かく観察され愛玩されたものも他

にあるまい。特に鑑賞の立場からそうであるが、最近は歴史の立場からも様

様な考察が試みられた。それでもうこれに加えるべき観察の余地は、そう沢

山は残っていないと思われるほどである。重要な凡ての問題はほぼ皆提出せ

られ、既に何等かの解答が与えられているように思える。

 併し多くの茶人達は、美しさのよい味わい手ではあったが、何も真理への

追求者であったとは云えぬ。又歴史家も史実には詳しくとも、価値問題にも

詳しいとは云えぬ。それでまだまだ検討されてよい問題が実は沢山にあろう。

顧みると左の二つの件に就いても、誰からもまだ論じられていないことが気

付かれ、敢えて書き残しておきたい志を起こした。

 誰も知る通り、「茶」は始めから仏法と厚い因縁を結んだ。その仏法は特

に禅を意味し、その禅はとりわけ臨済禅であり、而もその臨済禅は主として

大徳寺禅であった。

 それで茶味ともいうべきものは禅味と一如で、禅を離れて茶精神はなかっ

た。少なくとも禅的な理解を去れば、茶を深く理解することは出来ぬ。『南

坊録』などにもこの考えが散見するが、併し一番明確にこれを説いたのは寂

庵の著『禅茶録』で、好個の指南書と云ってよい。ともかく「茶」は禅と結

びつくことに於いて、その意味を深めた。

 ところが茶にとって禅精神を了得せしめる媒介を為すものは、茶器であり、

茶室であり、又露地であった。就中茶器は親しく手に触れるためか、茶事に

とって一入濃い縁を持つものであって、これなくしては茶が点てられぬ。野

点のように室を出て露地を去っても、茶器ばかりは離すわけにゆかぬ。殊の

ほか茶人達の愛玩を集めたのも故があろう。

 禅は仏法に於いては自力門と呼ばれ、これが浄土思想たる他力道と相対す

るものであることは、誰もの常識である。究竟に於いては一如であろうとも、

進む道は自他の二に分かれる。又そう分けて見る方が、理解を鮮明にさせる。

ところが茶人達が随喜したそれ等の茶器は、茶碗にしろ茶入にしろ、その二

つの道の何れを通って生まれて来たのであろうか。器物の製作にも自他の二

道があるのである。

 禅は今述べた通り自力門の仏法だと云われる。自力というのは、文字が示

す如く、自己の力量であり、それに便って活きぬくことを意味する。それ故

自己に深く徹してその自性を了得する道である。何れにしても自己が主要な

役者であり又舞台である。これを個人の道とも云えよう。それ故この道には

個性が深く関与してくる。今日の所謂個人作家を想いみれば、事はよく分か

ろう。個性に立つ作家は自力の道を進んでゆくのである。このことを想うと、

禅味に於いて尊ばれる茶器も亦、個人の力量を通って完成された美の現れと

見做されるであろう。だが果たしてどうか。

 注意すべきことには、茶道が禅に養われたということは、他力宗との関係

が歴史的に薄いことを意味する。「茶」は別に浄土宗や真宗や時宗との濃い

因縁を示しておらぬ。それ故「茶」が浄土思想から考察された例は殆ど見当

たらぬ。凡て禅思想から見られ育てられ守られ味われてきたのである。茶器

の美しさに感心するとは、その禅味に感心する意味があった。

 所が不思議なことに、茶碗が作られたその生い立ちを見ると、禅的な自力

の道とは何等の関係がないのである。それどころか、純粋に他力的な道から

生まれているのである。この事実を見過ごしたのは不思議なくらいで、禅の

人々が茶美を他力美だと説かなかったのはもとより、この三、四百年にも亙っ

て、他力宗の誰一人として、茶器に他力美を見た人がいないのである。

 併し初期に将来された茶碗が(又茶入その他が)一つとして落款のないこ

と、無銘の品であることは誰だとて知りぬいているのである。言いかえれば

個人道を通ったものでなく、却って個人の消え去った伝統の道で作られたの

である。個人が消えるということは、自力を主に立てぬことを意味する。朝

鮮茶碗にしろ又支那の天目茶碗にしろ、凡ては非個人的な他力の道で育てら

れたのである。決して署名することを忘れぬような作家から生まれる自力的

なものではなかった。元来それ等のものは、一つとして名工の手になった茶

器ではなかった。只当時のありふれた雑器だったに過ぎない。朝鮮茶碗の方

は飯碗や汁碗であり、天目の方は濁酒呑であった。こんな雑器が美しくなる

のは、他力の恵みがあるからである。だがそれ等のものに他力美を見た茶人

はなく僧侶はいない。不思議にも凡て禅の見方から讃歎せられた。今日まで

茶器に就いて書かれた文章は無数にあるが、一語だにその本来の性格たる他

力性に就いて言い及んだものがない。

 もとより、ここで私のいう茶器は朝鮮や支那からの将来品で、日本の茶器

を指すのではない。楽焼の如き金印を持つものは、他力的な作とは呼べぬ。

既に名工の作だからである。併し注意すべきことには、伝来の他力的な無銘

品より、更に美しい自力的な在銘品が見出せるであろうか。「茶碗は高麗」

と茶人自からが讃えるように、依然として「井戸」の如きものが、茶碗の王

座を占めるのはどういうわけか。而もその王者が名もない工人の手になった

雑器の中に見出されていることを、何故茶人達はもっと注意しないのであろ

うか。「茶」が禅から眺められたが故に、他力の美しさを想い当たらなかっ

たのか。浄土宗の僧侶が茶器に他力美を説かなかったのは、茶器に関心が乏

しかったためであろうか。初期の無銘の茶碗、即ち茶碗中の茶碗とも呼ばる

べきそれ等の品々は、当然他力的立場からもっと考察され讃歎されてよくは

ないか。

 ここで私は、禅茶人が茶器に禅美を見たことを誤った判断だと云おうとす

るのではない。寧ろ他力を尽くす時、それが自力の極にも触れてくるその妙

味に心を惹かれているのである。生粋の他力の道で出来た朝鮮茶碗には、却っ

て自力が一如になっているが故に、禅から見ても見事だというのに何の間違

いがあろう。それほど朝鮮茶碗に於ける他力美は、純なものだと見る方がよ

い。只それが他力を徹して自力に触れたという経過に就いて、何も禅茶人が

想い当たらなかったのはおかしい。況んや浄土宗の人達が、そのことを今日

まで指摘していないのは更におかしい。この事実が分かっていたら、茶器へ

の見方はその方向を更えたとさえ思える。

 実にこの事実、即ち初期の朝鮮茶碗が、他力的な雑器であったという事実

に気付かなかったばかりに、今度は簡単に自力的に作り得るのだと思い込ん

で了ったのである。併し自力道はまさしく難行道なのである。そんなに易々

と美しい茶碗が作れる筈はない。自力に徹するような作家は、そうざらに輩

出するわけがない。自力の道を歩むなら、必定天才が求められて来るからで

ある。若し「井戸」「三島」その他の品物が、他力の恩沢で美しくなってい

ることに気付いていたら、作者達は大に内省するところがあったであろう。

この反省を持たなかったばかりに、茶碗は「井戸」以後その性格を変え、作

為に落ちて了ったのである。「井戸」は造作からは生まれておらぬ。何故朝

鮮茶碗が禅美にも適ったのであろうか。それは臨済の教える「莫造作」を、

そのまま示しているからである。これに比べるなら「楽」の作為は、その教

えに背いたものではないであろうか。


   二

 朝鮮茶碗に就いて今日まで誰も考察しなかったもう一つの点は、次の興味

深い事実に関してである。過日焼物の求める炎の性質に就いて河井寛次郎や

浜田庄司などと話し合っている時、茶人達が愛した「井戸」や「熊川」や

「伊羅保」や「三島」や「刷毛目」などの茶碗類は、殆ど凡て中性炎で焼か

れていると教えられた。私はこれを聞いていて、はたと思い当たるものがあっ

て、この中性炎にいたく心を惹かれた。

 誰も知る通り、焼物を焼く炎は二つの性質に類別された。一方を酸化炎と

云い、他方を還元炎と呼ぶ。素人にはむづかしい術語であるが、これを易し

く言い直すと、酸化の方はよく燃え切った綺麗な炎で、還元の方はくすぶっ

て、燃えきらぬ煙の多い炎を指すのである。それ故これを完全燃焼と不完全

燃焼とに分けてもよい。焼物の性質によって何れかの炎が要るのである。例

えば釉に同じ銅を用いても、緑色を得ようとするにはどうしても酸化炎でな

ければならず、これに対して辰砂の色を得ようとするには還元の炎でないと

発色せぬ。これ等の性質がある故に、物に準じて焚き方を異にし、又窯の構

造をも変えるのである。凡ての焼物は、その何れかの炎によって焼かれると

見てよい。何れの炎でも焼けるものもあるが、それでも何れかの方が、更に

適するのである。

 然るに事実、酸化、還元何れにも属しない炎があって、これを中性炎と呼

んでいる。或は何れの性質をも共に兼ねる炎と云ってもよい。面白いことに

は茶人に持映された朝鮮の茶碗は、殆ど凡てこの中性炎で焼かれているとい

うのである。

 ここで二つの興味深い問題が起こる。なぜ朝鮮人はそんな焼き方をしたの

であるか、或はするようになったのであるか。それを始めから狙ったのか、

それとも必然にそうなったのか。第二の問いは何故茶人達が選んだ茶碗が、

殆ど凡て中性炎に依るものなのか。もとより彼等は中性炎に関する科学的知

識などは、何一つ持合わせてはいなかったのである。だが彼等が讃歎したそ

の味わいが、何故中性炎で焼かれたものに多いのか。どうして味わいの深い

ものが中性炎から生まれてくるのか。中性炎が焼物に特別な美しさを齎らす

所以は何か。

 第一気付かれることは、三、四百年も前の朝鮮の陶工のことである。何一

つ焼物に就いての学問的知識はなかった。それ故中性炎に就いても無関心で

あり、又そんなものを特に求めて焼いたというようなことはない。もっと焼

き方は平凡で、只熱を或る度まで上げて焼かねばならぬことを経験的に知っ

ていたに過ぎぬ。つまり只度さえ上がるように焼けばよいのである。朝鮮人

はどんな仕事にも、屈託がなく、酸化でなければいけないとか、還元ではこ

まるとか、そういう考えのために窮屈にされたことはない。それ故窮屈では

いけないというような考えにも亦囚われたことがない。つまり只焼いたので

ある。それで酸化でござれ還元でござれ、只熱が高まればよかったのである。

これが結局何れでもない、又何れでもある中性炎になって了うのである。そ

れ故中性炎を始めから狙ったのではなく、必然にそうなったまでである。こ

れは焚き方が神経質でなく呑気に焼くからと云ってもよい。それ故屈託もな

く囚われることもないのである。むづかしく云えば自由で無碍で、「風の吹

くまま吹かぬまま」という趣きがある。焚き方がそうなのは、心がそうだか

らである。別にこだわりがなく執着がなく迷いがないのである。そういう心

から「井戸」が焼かれ、「刷毛目」が作られ、「熊川」が生まれてきたので

ある。

 ここが朝鮮茶碗に無量の美しさが現れる所以である。そこにはいつも無心

な無碍な美しさが見える。仏法では好んで「寂」という文字を用いるが、こ

れは只淋しいというような簡単な意味ではなく、「何れにも執着しない」心

を指すのである。「茶」の方で「わび」とか「さび」などいうが、それは寂

の美を指してのことである。茶人達の眼は、鋭くそういう無碍の美しさに見

入ったのである。中性炎は今述べた如く、こだわりのない炎とも云えるので

あって、そういう炎で焼かれた茶碗に、茶人達が無量の美しさを見て取った

ことに、尽きぬ意味があろう。つまり狙った中性炎でないことが、この結果

を齎らしたとも云える。それ故朝鮮での場合は中性炎と呼ぶより、「酸化、

還元の何れにもこだわらぬ炎」という方が、わかり易いかも知れぬ。つまり

炎自体に自由な性質が現れているのである。これが茶味を深めた不思議な原

因だと云える。決して茶味など狙わぬところに、茶味が溢れ出るのである。

若し狙った中性炎なら、自由な美は生めぬであろう。

 ついでであるから言い添えたいが、凡ての青磁は還元炎でなければ出来ぬ。

それ故有名な高麗の青磁と雖も、還元炎の所産たるは論を俟たぬ。だが朝鮮

の焼き方は甚だ自然なのであって、還元のみならずしばしば炎が酸化して、

青磁が青味を呈せず、黄色になったことは、多くの遺品が示す通りである。

中には半分還元し、半分酸化した所謂「片身変り」とか「火変り」とか呼ぶ

品が出ていることは、誰も知っている通りである。このことは焚き方が如何

に自然であり、神経質でなかったかを語ろう。偶々充分炎が還元した時、美

しく青磁に発色したというに過ぎない。高麗青磁の窯跡を訪ねると、如何に

還元酸化が入り乱れた窯であったかが分かる。これを幼穉な焚き方、しくじ

りの多い焼き方、統制のない炎、非能率な窯と謗ることも出来るが、それは

今日の科学的な商売的な立場からの非難に過ぎぬ。美しさの立場から見ると、

しくじりの多い不完全な窯には、反面無類に美しいものが生まれてくるので

ある。否、たとえしくじった品にさえどこか活々したものが見られるのであ

る。人間が作為したものでないから、これを誤謬だとは云えないのである。

人間の力を越えた炎の加護が働いて、他力的に救われるのだとも説き得よう。

知識で工夫した能率一点張りの窯には、そんな加護は見えぬ。近代の科学的

焼物から優れた品が生まれ難いのは、自然の加護を断っているからと云えよ

う。朝鮮の品々を見ると、焼きそこなっていてもそのままでどこか美しいの

である。機械製品が完全でいて、どこか冷たいのと相対する。

 朝鮮茶碗の美しさは、自然の加護を素直に受け容れた、その証だとも云え

よう。人智が発達していなかったために、かくは素直になれたのだとも云え

る。学問は有難いものであるが、学問のために却って縛られて損をする場合

が多いことは、もっと反省されてよくはないか。


   三

 ここで一言注意したいのは、茶人達ほど器物に就いてこまごまと観察した

人はないのであるが、考えるとそれが案外表に現れた味わいのことのみなの

には驚かされる。茶人は眼の鋭い人であるためか、眼で茶器の美をいち早く

見ぬきはするが、併し外に見えることのみにその働きが終わる場合が多い。

言葉を更えると物の美しさを、現れた結果でのみ受取って、それ以上はめっ

たに溯らぬ。

 併し物が生まれるには結果の前の過程があり、過程の先に原因がある。美

しいのは結果ばかりではなく、過程にも原因にも、美しさがあるのである。

然るにこの三つの階段のうち茶人が眼を注いだのは、殆ど終わりの結果のみ

であって、どうしてかかる美しさが生まれて来るかの要因に就いては、立ち

入って考えようとはしなかったのである。彼等のこまごました観察、例えば

「十個の見処」というようなものは、結果に現れたものを数えたに過ぎぬ。

どうしてそんな見処が出来たのか、その由って来る所以を反省しようとはし

なかったのである。それ故簡単に、結果たる見処さえ揃えれば、よい茶器を

新しく生めるというような安易な考え方に落ちたのである。だが過程や原因

をぬかして、結果だけで判断しては、大きな手落ちがあろう。

 併し茶器の美を解する上に一段と大切なのは、美しい結果の花を咲かせた

元の根や種である。これが分からぬと、その結果に現れた美しさをも浅く受

取っていることにならろう。茶碗をその味わいで受取るのはよいとしても、

余り味わいにのみ見とれているためか、それが味わいなどに引っかかって出

来たものでないという判断すら中々持てぬのである。だから味わいから焼物

を作ろうと試みたりする矛盾を犯すのである。

 朝鮮の陶工達はどんな心の状態で作ったか、この問いこそ最も本質的なの

である。結果のみから受取ると、如何にも雅器だという風に感じるが、その

風雅が雑器の性質にもとづくという簡単な事実さえ中々茶人達には了解出来

ぬのである。又稀有な美しさだと感じる結果、ざらに作られた安物などとは

到底考え及ばないのである。現れている調子からすれば大した名技であるか

ら、どんな名工が腕を振ったのかと考えて了う。そのため平凡な職人が平凡

に作った品などとは想像もつかぬことになって了う。それで表面からのみ見

ると、まるで本来の性質とは違ったものに解する危険が甚だ多い。この危険

から離脱している茶人が少ない証拠には、結果からの観察で、茶器を作り得

るのだと考えて了う。併しあの結果を呼ぶには、考えも及ばぬ過程や原因が

働いているのである。

 それ故結果の如きは、むしろ問題としては第二段のことで、もっと大切な

ものがその背後に控えているのである。又これが分からぬと、正しく結果を

解することも出来ぬ。それ故茶人達の茶器に対するこまごました観察も、根

の浅いものがどんなに多いことか。前にも述べた朝鮮茶碗の他力的な性質に

就いて、誰も考え及ばなかったのは、それを結果からのみ受取ったためだと

云えよう。又は前に述べた中性炎のことも、過程として重要な問題を示唆し

ているのである。

 大体、茶器は器物とはいうが、その背後には心が潜み、更に又暮しが控え

ているのであって、凡て器の美しさは、その匿れたものの現れだと云えよう。

どんな心の状態で作るか、それで品物の性質は右と左とに別れて了う。朝鮮

の茶碗を正しく見るには、やはりその後(うしろ)の心を正しく見ねばなら

ない。外に現れた味わいだけでは、茶器の本当の美しさは分からぬ。

 私は嘗て萩の窯場を訪れて、うたた嘆いたことがある。萩には今中々名工

がいると聞いて、その二、三を訪ねたが、何れも茶器の作者で名を成し、朝

鮮の品物、例えば「井戸」だとか「伊羅保」だとかを鑑(かがみ)にして色

色作っているのである。技術は中々上手で、推賞するに足りるが、どうも肝

腎の一物が足りぬ。そのため、たかだか朝鮮ものの手際のよい真似というぐ

らいに過ぎぬ。そこより一歩も先に出たものがない。何故、脱け得ないのか。

結局は造作で茶碗を作るためで、作為を脱した心境にいないからである。所

が朝鮮の品は無造作に焼かれ、もともと茶器、名器などを狙ったものではな

い。ここが劃然とした差別の生ずるところである。

 驚いたことには、萩の著名な陶工達は、立派な家に住み、凝った庭をしつ

らえ、奥には茶室を設け、しゃれた構えの家に日夜をおくる身分である。恐

らく日本中の陶工のうちで、最も貴族的な暮しをしているかと思う。自から

も陶匠を以て任じ、そうしてどこまでも雅器としての茶器を作っているので

ある。然るに元来の朝鮮茶碗は、貧乏な職人の作で、而も平凡な雑器だった

というに過ぎぬ。「茶」のことなどてんで知らぬ。茶を飲んだことすらない

のである。その環境も心境も、亦器の性質も全く違うのである。それ故今、

萩でどんなに朝鮮茶碗の後を追ったとて、結局は外からそれを巧みに真似る

ということに終わろう。つまり生れも育ちも違うのである。

 一寸考えると、身分も高く、智慧も優れている萩の陶工達が作る風雅な茶

器の方が一段と上であるべき筈だが、朝鮮の雑器に比べて尚且つ見劣りがす

るのは、なぜであろうか。このままでは、いつになっても勝ちみはないので

ある。これは私の考えではやはり、結果からのみ上手に受取って、由って来

る原因や過程を少しも省みないところから来る敗北である。つまり外から形

を真似て、内からそれを生み出すことをしないのである。何も今更朝鮮人の

ように貧乏暮しに帰る要もないし又雑器に戻るわけにもゆくまい。併し味に

囚われた不自由な心からは離脱しないと本当のものは生めぬ。まだ造作の域

を出ず、無碍の心からは甚だ遠い。朝鮮人の勝ちみは、禅語を借りれば所謂

「只ま[麻かんむりに幺]」の境地で作っている点で、味などに引っかかっ

た窮屈な作り方をしていないことである。ここが微妙な別れ所と云えよう。

朝鮮茶碗の味わいは、味わいにも無味にも囚われないところから生まれてい

るのである。日本人は、なまじ味わいが分かるだけに、そこにいつまでもこ

びりついているのである。味わいが自由さから生れず、自由を真似て、自由

に囚われたままに終わっているのである。これではよい茶器が出来るわけは

ない。あの無学な名も知れぬ朝鮮の工人達が作った雑器の美しさを、どうし

て易々と越え得ないのか。又しても心の問題に帰ってくるのである。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『心』 昭和29年6月号】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第6巻『茶と美』春秋社 初版1972年)

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